懐かしの阪神電車 Hanshin Elc.Railways.3/20追

  • 7800系急行「うずしお」号
     思えば昭和40年の夏、阪神本線から戦前に活躍した小形の電車は全て引退いたしました。丁度その当時は阪神電車も伝法線を西九条まで延長し、難波までの延長計画も具体化したのですが、当時の延長計画のあった区間で、沿線の住民が地下駅の入り口をもっと作れ!等と騒いだ所、阪神の社長は「それなら新線の建設はヤンペ!」と言うことで、建設機材を引き上げて工事は頓挫。あの当時から40年以上になってやっと阪神電車が、このたび難波まで走る事になりました。そこで小生もワルノリついでに、昔の阪神電車に活躍し急カーブを猛スピードで突っ走った小形電車をはじめとする思い出の姿を、ご紹介致したします。それから小生は大阪生まれですが、親戚など大半は南の南海や近鉄地域であった為、阪神電車の写真はさほど多く撮影していません。昭和40年当時はまだ高校生だったので機材や資金的にも、そして写真の腕前もイマイチであったので予めご了承願います。 Hanshin Electoric Railways,it's one of the high speed Inter-Urban survices between Osaka and Kobe.I will intoroduce of "Old good days" about 40 or more years ago.Please click on any photos in this index. You will find some englich reports in this sight! Thank you.

能勢電の木造車たち Nose Tram line in 1967 追5/17

  • ポール姿の29
    昭和41年能勢電ではポール集電からパンタグラフに付け替え、もと新京阪の木造車もパンタグラフとなり、往年千里山線で活躍していた様な姿が復活した。これは阪急からの全鋼車320形の入線に伴うもので、この電車が能勢電の貧弱な軌道を走れるものか?と危惧させられたが、実際に走り出した姿を見て驚いた。木造車は昭和42年には運転を中止、これを機会に能勢電は軌道強化、更には付け替えなど現在に至る近代化が序じょに始まる事になる Nose electoric tram system now,Nose Electoric Ry.co.is suberbs in Osaka city. At that times, wood cars were still active.But now,it'sturned to very modern railways.

能勢電のその後 Nose Elc.Ry. old to now.11/14追

  • 妙見口付近
     木造電車とのかかわりは、僅か2年程であったが小生が思い切り撮影出来た"日本における"最後の存在であった。その後もたまには能勢電をたずねては見たが、昇圧により阪急の大形車が入線したのは良いとして、怪しげな塗装が気に喰わず、たまに訪れたとしても妙見口まで一往復する程度であった。所が数年前から阪急色に塗り替えが始まったとたんに、またまた能勢電沿線をほっつき歩くようになった。ここでは320形の続きから最近の状況までをご紹介するつもりである。

東北本線直流区間 E-locos in Tohoku Line2/27追

  • 臨時特急あけぼの
    上野から黒磯までの直流区間にはかつてFE577やEF58などの旧形電気機関車が長距離旅客列車の牽引に幅広く活躍を続けていました。とくにEF57は独特の風貌が魅力的で、EF58と共通運用で最後の華やかな活躍を続けていました。1973年から1976年ごろまでに撮影した全盛時代の姿をご紹介いたします。

河内の蒸気機関車 Steam near Osaka 2/5追

  • C5779牽引の下り急行「大和」
     昭和40年から数年間、竜華機関区のすぐ近所に住んで居たときの写真からご紹介いたします。自宅では24時間入れ替え中の8620や9600の音が聞こえたのも懐かしい思い出であります。このテーマですでに某誌に掲載済みなのでなるべく未発表のものを掲載する予定です。

オール1…これが通知票の成績だったらタイヘン!Funny car numbers

  • ウイーン市電 111       8-1978
     ここでは車輌番号がオール1のゾロメ番号を集めて見ました。果たして全部お判りでしょうか?

ヘンな番号の車輌  Funny car nummbers(2)

  • JR四国 スロフ123 
    先にオール1の番号の車輌を掲載いたしましたが、ここではそれ以外の、珍ナンバーの車輌をご紹介いたします。我ながら相当なドアホとは思いつつ、たまたま見かけた珍番号車の写真を集めて見ると、あきれ返るばかりでありますが、結局その番号の形式の由来などを調べる事となりまして、結構アホとは言えない「勉強」にはなっている所であります。とくに外国の車両に関してはなおさらであります。

ドイツ形蒸気機関車を追って Steam in Germany 1/29追加

  • 01-118 西ドイツ フランクフルトで
     ドイツに大形本線蒸気機関車を撮影に行くようになったのは、1978年の事です。この時は主に現役で活躍していた東ドイツが最も印象に残っています。一方西ドイツのドイツ連邦鉄道では1977年に蒸気機関車の運転を廃止、以後連邦鉄道では蒸気機関車の運転は一切まかりならぬ!と言う規則を制定してしまいました。このためたとえ01形の様な大形の蒸気機関車であっても西ドイツ国内では、保存鉄道や私鉄の線路でしか運転する事しか出来ない状態となったのです。どうしても本線運転をしたければオーストリアなど、他国へとDBのディーゼル機に牽引されて有火回送して走らせるような有様でした。しかし1985年のドイツ鉄道開業150周年に際しては、この考えを改め、少なくとも連邦鉄道の所有機に関しては本線上の蒸気運転が行なわれるようになりました。その後序じょに「規制緩和」が行なわれて、更には東西ドイツの統合などの事件も加わり、現在のようなドイツ国内を蒸気機関車が走り回るような状態となったのです。ここでは旧東ドイツ時代以外のドイツ型蒸気機関車の活躍する姿を順不同に掲載いたします。 **ただ今このコーナーは制作中であります。従って写真が順番通りには出てこない場合がありますので、見本の写真をご覧の上、お好みの写真をご覧戴くようお願い致します。また写真の一部にスキャナーの際に於ける不手際により、ピントが甘かったり、退色の激しいものもありますが、大半の写真は6×6版の白黒で同時に撮影してありますが、ここではその点をお含みの上、ご覧下さい。 Dear friends. I will intoduce German steam without East Germany.If you hope to look East German Steam,please look "Doutche Dampf Pepublik DDR" in this home page. Photos in this page,inculding east german area after closuer of East Germany. I have many another photos whith out this corner. Now I hope to intoduce more photos if I can. But now I'm very busy of my educationl working.So please waite untill addtional new phtos. Thank you.

ドイツのプランダンプフGerman  Plandampf Aug-1993

  • ザールフェルトに憩う01-137
     東ドイツの消滅と前後して、ドイツではプランダンプフと言う新しい蒸気運転が行なわれるようになりました。この方式は、通常DL等が牽引する定期列車を蒸気機関車牽引により運転する!と言うもので、当初はおもに旧東ドイツ地域において、年間十数回にわたって様々な地域で行なわれました。東ドイツではベルリンの壁崩壊直前まで蒸気機関車が営業運転に用いられていた為、全国各地において蒸気運転に必要な設備が残されていた為、蒸気機関車による迅速な運用が可能だったわけです。現在でも年に数回このようなイベントが行なわれているようです。1993年8月13~15日にかけてザールフェルトを起点に行なわれたプランダンプフは01-130、01-531、03-1010、41-1231の4機によるもので旧東ドイツを代表する動態保存の急客機01形原形、近代改造の01-5形、3シリンダーの03-10形をそろえ、更に急行用貨物機41形も登場する豪華なものでありました。3日間に渡りこれらの機関車が早朝から深夜まであちこちを走り回るので、それこそ食事を撮るヒマもないほどに、あちこち追い掛け回したものです。なお、この時の様子は鉄道ジャーナル1994年8月号に紹介してありますので、併せてご覧頂ければ幸甚であります。 Plan Dampf sarounding Saalfeld area in 8-1993 Namely,Steam special for reguror time tabuls.

ドイツ蒸気機関車博物館(DDM)1/31UP

  • 50-3690
    この博物館はDeutche Dampf Museumといい、直訳すると「ドイツ蒸気博物館」である。ニュルンベルクの北方約100キロのノイエンマルクト・ヴィルスベルクにあり、クラシック音楽のファンには、バイロイトの近所と言った方が分かりやすいかも知れない。1977年に開館し、翌年小生も訪れた事がある。2007年5月、開館30周年のイベントがあると言うので小生も29年ぶりに訪れたが、予定していたフランクフルトすからの01-118牽引の特別列車は中止となり、もう一本前日に訪れた52-8形は、途中でスピードの出し過ぎのためロッドがいかれて、その後の特別運転はキャンセルになった。蒸気機関車はナローを含めて32機も保有し、ラウンドハウスに並んだコレクションは梅小路をしのぐもので、主にドイツ連邦鉄道の蒸気機関車を保存している。ドイツにはこのようなもと機関区を利用した大規模な博物館が各地にある(小生が訪れた事のある場所だけでも7箇所)のは驚きである。

東ドイツの保存機関車  Museum steams in East Germany

  • ナロー機 ザクセン・マイヤー機136号
     東ドイツは歴史的車輌の保存には極めて熱心で、西ドイツではとっくの昔に解体された形式も経済発展の遅れにより、比較的後まで蒸気機関車を使い続けた為、歴史的価値のある貴重な形式のコレクションは西ドイツを遥かに上回っていた。ここでは1978年8月に開催されたドレスデン近郊のラーデボイル・オストに於ける車輌展示会に登場した保存車両をご覧いただく事にする。なお機関車の解説には篠原正瑛先生著「全盛時代のドイツ蒸気機関車」を参照したが、一部に不明な点もあるので、ドイツ語の書物を暇な時に改めて参照の上、補筆・訂正させて頂くつもりである。

東ドイツに蒸気機関車を追ってDeutche Dampf Republik? (DDR) 1-31追

  • Dr_saalfeld_15
     ベルリンの壁が崩壊して足掛け20年。いまや体験する事の出来なくなった社会主義国内での撮影旅行の思い出。 ☆このコーナーはまだまだ大量に写真を入れる予定ですのでお楽しみに!

ドイツ統合前夜 1/31追 Border West and East Germany.

  • プロプスツェラの国境
     1989年11月16日のベルリンの壁崩壊は小生にとっても極めて感慨深い出来事でした。初めて「東ドイツ」と言う国をこの目で目の当たりにしてから10数年、その間に8回ほど訪問する機会がありました。社会主義と言う、我々の眼から見るとまったく矛盾に満ち溢れた世界に接し、そこに暮らす人々の裏と表をそつなく使い分けた生活ぶりにも大きな驚きを抱いたのはもとより、鉄道を取り巻くさまざまな姿に大きな魅力を感じました。あのカベの崩壊によって今までの常識が180度ひっくり返った様子もまた強烈な印象として心の中に残っています。そういう若干、鉄道趣味の範囲からやや外れた観点からこのページを作って行きたいと思っています。今後もこのページに相応しい写真を発見次第随時追加して行くつもりです。

スイスのベルニナ線を訪ねて。 Bernina line of Raetian Railways

  • ベルニナ峠をゆく夏場の臨時列車
    スイスにあるレーティッシェ・バーンのベルニナ線は、スイス国境に近いイタリアのチラノ(海抜約400m)から70‰の連続急勾配で海抜2257mのアルブラ峠を越えて、有名なリゾート地であるサン・モリッツまでの延長約60.6㎞の登山鉄道である。途中長大トンネルやラック式を用いずにアルプスの急峻を越える唯一の鉄道で、沿線の息をのむような見事な車窓風景は世界的にも広く知られている。峠のオスピッツォ・ベルニナ駅は、ラック式ではない通常の鉄道としてはヨーロッパで最高地点の駅である。この付近で撮影する時には余り走り回ったりすると空気が薄い為、あとで大変な事になるから注意を要する。日本の箱根登山鉄道建設の際にこのベルニナ鉄道を模範としたことは、日本でも有名な話で、現在両社は姉妹鉄道となっている。                              この線には1978年以来たびたび訪れ、J誌などに本邦初公開の記事でご紹介したものもあるが、現在ではすっかり有名になってしまった。ここでは1978年当時と最近の情景を比較しながらご覧いただくことにしよう。

イギリスの蒸気機関車 British Steam 

  • Ex.LMS Class Brack 5 No.4767
     イギリスの蒸気機関車を初めて撮影に出かけたのは、比較的遅く1989年の事です。最初に見たイギリスの鉄道の印象は、車輌限界が著しく小さく、昔の阪神電車みたい…と言えば少々オーバーですが少なくとも左右の寸法は東京の地下鉄銀座線程度ではないかと言う印象です。そんな所に走る蒸気機関車はとても小さく、日本の方が遥かに大きく見えます。そう言う機関車であっても軸重は20トンを上回り、出力も日本のC62を遥かに凌ぎ戦前において最高速度160km/h運転を行なっていたのですから、まさに驚きです。なんと言ってもイギリスの蒸気機関車の魅力は、磨き上げられた常に光り輝くように美しく端正な姿に尽きるようです。もともと小生はドイツの蒸気機関車にのめり込んでいましたが、それとはひと味ことなった魅力を感ずるようになりました。この20年間に撮りためた写真をご覧下さい。

最近の鉄道旅行から…後編Trip in JP 2008

  • 大軌元デボ1形
    2008年10月8日から16日まで北陸経由で大阪まで「良い子切符」で往復した時のレポートです。

最近の鉄道旅行から…前編Trip in Jp 2008

  • 2000系マルーン編成特急
     2008年10月8日から16日までの間、「よい子切符」で北陸経由で関西地区の私鉄を回ってきた中より、一部をご笑覧に入れます。本当はもっと回ってきたかったのですが、17日に音楽会に行く都合上切り上げました。

パノラマカーを追って Panrama Cars in Nagoya Railways 12/27追

  • 犬山橋梁を渡る特急「北アルプス」
     取りあえずは最近の写真をご覧に入れます。

京福福井・部分廃止前夜の越前本線 Memorial local near Fukui 1974

  • 勝山の夜 1974-8-8
     昭和49年8月12日をもって越前本線の勝山・京福大野間が廃止となった。車輌の近代化のため南海電鉄から昇圧により不要となったモハ1201形16両とモハ11001形8両を大量導入したため、途中の下新井トンネルの通過が不可能な事が理由の一つとして挙げられていたが、トンネルの改修に莫大な費用をかけて存続させるほどの意義も無かったのであろう。当時勝山までは日中30分ヘッド、京福大野までは1時間ヘッドの運転で、そこそこの乗客は乗っていた。 Memorial reports of Keifuku Elec.co. Fukui branch systems abandoned pert of Echizen main line in 12-8-1974.

京福福井の電車続編 Memorial local in Fukui3/19追

  • モハ2001形による急行三国港行き
     続編では色々な写真を今後増やす予定です。 Memorial Photos of Keifuku Elec.co.Fukui Branch survices from year 1974 to about 1985.

一本のフィルムから My memorial photos in 1970

  • 南武線快速電車登場!!
     このフィルムはブローニー・セミ版の16コマで、カメラはコニカのパールⅢである。昭和44年12月~昭和45年3月という、かなりの間が開いているが、勉学熱心の余り?何年か浪人していたので、流石にこの時期は余り撮影をしていないことが明白である。当時南武線沿線に住んでいたので、快速登場前後の情景は容易に撮影する事が出来たのである。

昭和46年元旦の初詣 New Year Steam in Hokkaido 1971

  • C62発車!
    My memorial phots from new year day.1976.

想いでの小田急  Memorial of Odakyu Lines2/4追

  • GSE 70000系の登場
     昭和30年代初頭において、関東の私鉄でもっともスピードの速い電車は小田急でした。しかしその後に於ける沿線人口の爆発的な増加により、スピードアップどころの騒ぎではなくなり、通勤輸送対策に終われる結果となってしまったのは大変残念な事と言えます。最近になってやっと複々線の延長により段々とスピードが回復しつつありますが、京浜急行の驚くべきスピードアップに比べると、イマイチの感は否めない所です。一部に掲載のカラーは1968年にエクタクローム・ハイスピードが期限切迫品のため叩き売りをしていたので購入したものですが、それは良いとして、現像料は高額である事を忘れていて、後で困りました。叩き売りフイルムの為、身近な小田急を気楽に撮影しているようです。 11月24日UP

一本のフィルムから My memorial photos in 13th Dec.1967

  • 大阪市電2600形
    ある一本のフィルムの最初から終わりまでの中から順番に選んで並べてみました。昭和42年12月13日の記録です。 You will look at those days, Kintetsu new commers trial running for Railway Fans.
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2010年12月12日 (日)

「南海電車の思い出」をこしらえました。

 既にご覧になった方々も多くいらっしゃるかとは存じますが、昭和40年頃の昇圧以前の情景を主体に、多くの写真を掲載いたしました。南海は1500Vに昇圧の際して、昇圧対応の複電圧車を除き、多くの在来車を廃車とした為。それまで複雑怪奇であった車両体系が一掃され、随分とすっきりとしたものに変貌、逆に言えば趣味的には面白みの無いものになってしまいました。現在でも南海線の線形は熟知しているので時々乗車しては昔を懐かしんでいますが、あまりマジメに撮影しようと言う意欲はありません。阪急や近鉄に比べて昇圧時期が比較的遅かった事、南海の旧型電車はMGを持っていないので、昇圧改造には結構費用がかかるので思い切って処分したものと思われます。小生にとっては生まれ故郷でもあり、昔の南海電車に対する思い入れは一方ならざるものがあります。画面左側のインデックスの上から28番目をクリックしてください。

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鉄道」カテゴリの記事

コメント

幼少時代、南海電鉄の多奈川で住んでいた縁もあって南海電鉄のとりこになっています。
早速ですが懐かしい画像を拝見させて頂き有難うございます。
勝手なお願いですが下記画像を所有されてましたらご提供頂ければ幸甚です。
本線関係:臨急友ヶ島号・臨時ナイター列車・日米ゴルフ号
高野線関係:松茸狩り号・こうごういわわき号
画像がなくても文章にて情報頂けるだけでも嬉しいのですが?
無理を言いますが宜しくお願い申し上げます。

田中様へ ご覧戴きありがとうございます。ご要望の臨時列車については申し訳ありませんが、撮影しておりません。と言うのは、小生が大阪に住んでいたのは幼児の頃と、昭和40年~43年の間でありまして幼時の時は別として、ほぼ3年間に集中的に撮影したものが大半です。この時は久宝寺の近くに住んでいたのと、南海沿線に親戚が複数あったので遊びに行くついでに色々と撮影したものです。自転車で八尾からみさき公園辺りまで撮影に行った事もあります。それ以外の人生のほとんどは東京近辺で暮らしておりました。南海は関西では数少ない狭軌の私鉄ですが、関東の狭軌の私鉄は一般に速度が遅く、スタイルも余り好ましいものとは思われませんが、南海も昇圧後は電車のスタイルは好ましく思われず、しかし最近でも南海電車に乗りながら昔の事を思い出す事が楽しみの一つであります。

管理人様、お返事が大変遅くなり申し訳御座いません。主は関東にお住まいなのですね。でもこちらへ紹介して頂いています写真は私から見ればとても貴重なものです。特に2051使用の「なると号」はインターネットで初めて拝見させて頂きました。まだ全て拝見させて頂いてはおりませんが、時間を見つけて訪問させて頂きます。本当に有難う御座いました。

田中様へ なると号は小生が小学校の2年生の時に父に連れられて大阪に行った際、今思うにモハ1551形とクハ1901形のスタイルの良い戦前型の2段窓車両を転換クロスに改造、塗装も記憶では越し回りをブルー、窓周りをクリームと言うツートンカラーで走っていた事を目撃した記憶があります。確か昭和31年のことです。当時本線の新型は11001系の貫通型2編成と吊り掛けの12001系1編成のみで、その他の優等列車はモハ2001系が活躍していて、「なると」号に用いる高速性能に優れた電車がなかった為、150馬力のモハ1551形18m車を改装、更に弱め界磁を付けて高速性能に対処いたしました。その後四国連絡列車の運転に対しても、当初は1551形のクロス車を転用、当時は正面2枚窓の11009系も登場していましたが、「なると」号は一般車‥ロングシートの2001系や11001系貫通型の4連、更には1551系のロングシート車も弱め界磁付きに改造して用いるようになりました。ご指摘のモハ2051形は、もともとモハ2001系の電動車の比率が高かった為に、モハ2025~2028のモーターを召し上げてクハに格下げて、4連2編成を製造したもので、モハ2001系とは共通運用が可能な為に他にも「なると」号に用いられていた事を目撃した記憶は多々あります。ただモハ2051系はスピードメーターが付いていて、モハ2001系の旧型は無かったので、モハ2051系に乗車の際にはどの辺りで何キロスピードが出るのか?等という事を調べまして、モハ2001系に乗車の際の参考とし、更にレールのジョイントを通過する回数によって速度が計算できる事に気付き、モハ2051のスピードメーターと計測結果を比較したりしながら楽しんだ事もあります。なお、同じ200馬力であるモハ12001系も同様な運転曲線であったものと思われ、これも速度計があったので参考にいたしました。ある時モハ2013を先頭とする上り急行が天下茶屋付近で130キロと言う速度を計測いたした次第であります。ですから現在は数学の教師ですが、その立場から見てもせいぜいプラスマイナス数キロ程度の測定誤差の範囲であろうと思っています。ただし仮定条件としてレールの長さは25メートルである事が肝要で、阪和線では戦前の11メートルレールを溶接して22メートルレールにしたものがあり、70系の快速が130キロ!と言う測定結果にはどうも腑に落ちないので調べたら結局は約115キロであったようです。

はじめまして。お名前は子供の頃から鉄道系の雑誌で時々拝見しておりました。直接コンタクトが容易に取れる時代となり、感激している次第です。

私は高石の出身で、昭和42年生まれでして、お写真を非常に感慨深く見させていただきました。有難うございます。

私の幼少時代の記憶は昭和45年頃からあとですが、その頃もまだ同じ様な電車が走っていたと思います。
昭和46年頃に諏訪ノ森の眼科医院に電車で連れられて通っていましたので、今思えば1201型の普通電車に乗っていたのだろうと思われます。

高石には18年前の26歳の頃まで住んでおりましたが、その後勤務先の転勤命令で7年間の名古屋住まいを経て、現在は東京の練馬で暮らしております。大阪を離れたのが、新塗装色への塗り替えの前後ぐらいですので、私の中では南海電車は今でも緑の電車です。

毎日西武の電車に揺られながら、時々南海電車を思い出しております。これからもブログ更新を楽しみにしております。

管理人様、お返事有難うございます。

かなり車両について詳細にご説明頂き嬉しく思います。

またご無理な相談ですが管理人様の鉄道仲間で昭和30~40年頃の南海に精通なさっておられる方をご存知でしたら是非ご紹介頂ければ幸甚です。

我儘なかり言って本当に申し訳ありません。

南海の古い記録だけがネットが発展した中で関西の私鉄としては情報量が稀少です。

宜しくお願い致します。

きっさ様 コメントを戴きありがとうございます。親戚が羽衣にあるので未だに時々遊びに行きますが、昔と比べて随分変わりましたね。
田中様 高校時代は大阪に居ましたが、鉄道好きの仲間の中で小生が一番の物知りで、小生以外に南海に詳しい仲間は存じません。但し父も南海ファンで戦前にかなりの写真を撮影しています。ただ許可無くこのホームページに掲載するのも何なので、まだほとんど発表していませんが小生のもう一つのホームページhttp://outdoor.geocities.yahoo.co.jp/gl/onaganrengaw にその一部を掲載してあります。大半は近鉄大阪線2200系でありますが‥。それと亡くなった伯父が南海の天下茶屋工場で電車のお守りをしていたので、色々な事を教えてもらった記憶があります。南海電車について詳細に紹介した書物として、藤井信夫著「南海電気鉄道」上下巻‥関西鉄道研究会刊行があります。明治時代から現代に至る南海電車の発達の全容を貴重な写真と共に紹介したものです。

田中様へ 藤井氏の著書をざっと見渡しましたが、お尋ねの臨時列車については不明でありましたが、和田康之著、和歌山の汽車・電車‥トンボ出版に友が島号の写真が2点掲載されています。1953年及び1956年の撮影で、いずれも難波・加太直通の行楽臨時急行で夏の海水浴シーズンはもとより春の行楽シーズンにも運転されていた模様です。編成はモハ1201形2両にクハを1両の3連で、クハ1901形の場合もありますが、木造の簡易鋼体化改造のクハ1821形の場合もあったようです。それでも当時の加太線は木造車の天下だったので、かなり立派に見えたそうであります。モハ1201形なので本線の急行であっても、70キロ程度しか速度は出ないので、可也遅いダイヤを組んだものと思われます。逆にモハ2001系などの200馬力の20m級電車は、変電所がパンクしたり、車長の関係で当時の加太線には入線不可能だったとも考えられ、しかも当時は本線の急行用電車で手一杯であった事は容易に推察できますし、モハ1201形は速度は遅いものの、内装は優れた電車だったので、当時としては精一杯のサービスだったのかも判りません。藤井氏及び和田氏の著書は東京では入手に苦労したものでありますが、関西の鉄道書籍を扱う書店では、比較的容易に入手可能かと思われます。

きっさ様へ 昭和46年頃にご乗車になった電車はモハ1551形だと思われます。外見はモハ1201形と同一ですが、モハ1201形は100馬力のモーターなのに対してモハ1551形は150馬力のモーターなので、当時の本線に用いられた旧型電車は南紀直通客車牽引のために1551形が唯一本線に残っていました。いずれにしても4連3編成しか本線には残ってなく、極めて貴重な乗車体験をされたものと存じます。小生がモハ1551形を撮影した最後は昭和47年の8月でした。高師浜線にも当時モハ1551形が1両で走っていました。モハ1201形は速度が遅いので、いち早く本線からは撤退し、加太線、和歌山港線及び汐見橋線などに最後の活躍をし、既に貴志川線もモハ1201形に置き換わっていたり、水間鉄道や京福電鉄福井支社にも譲渡が始まっていた時代だと認識しています。なお、小生のホームページには京福福井のコーナーが二つありますので、併せてご笑覧戴ければ幸甚であります。

管理人様 お返事有難うございます。
なるほど、1551形の普通車は希少だったんですね。もう少し早く生まれていればその体験をその場で味わえたのに、それが残念です。

諏訪ノ森の眼科には、数回母親に連れられて行きましたので、1551形に乗ったのはその内の恐らく1回だと思うのですが、なぜおぼろげに記憶があったかと言うと、木目調の長い座席を何となく覚えていたからなのです。

私の両親は今も高石で健在でして、帰省の折には急行の止まらない高石駅は不便だろうと、羽衣駅まで送迎してくれます。

京福のページも拝見しました。南海では廃車になってしまった車両がもう少し長く活躍していたんですね。昭和48年の昇圧の事を子供の私は知らず、何やら一気にきれいな電車ばかりになったと、それだけを感じていました。釣りかけモーターの音が聞こえなくなり、特急四国号(11009系)も、間に1両古い車両が挟まっていたのが消え、モーターの音まで変わったように思いました。あの古きよき時代のモーター音を聞くチャンスが、京福ではしばらくあったのに、結局行けずじまいでした。

南海電車の風景は、南海本線の海沿いのシーンと、ドーム屋根の旧難波駅が好きでした。新難波駅は機能優先でああなっちゃったんだろうと思うのですが、ドーム屋根は残して欲しかったです。

きっさ様へ 確かに難波駅の大ドームは日本のターミナル駅としては破格の雄大さがありましたね。しかも駅を出ると本線は一直線ですっ飛ばすところが他の私鉄には無い魅力があり、新今宮が開業する以前は難波を発車した本線の急行はいきなりフルノッチですっ飛ばし、高架線から天下茶屋の地平に下るSカーブの制限速度が95キロだったりして、大抵はそれを無視して100キロ以上で飛ばしていました。但しあまりに飛ばしすぎると電圧計のメーターが450Vくらいまで低下したりしていました。ヨーロッパにちょくちょく行くようになって、各地のターミナル駅はもっと壮大な大ドームがあり、しかもその中に蒸気機関車が入って来たりするので、流石に規模の雄大さに感動しています。ドーム内の通気がうまく設計されていて、蒸気機関車が煙をもくもくと出しても天井にうまく抜けていくところにいたく感心したりしています。ドームに響く女性のアナウンスは、あちらの言葉なので意味不明ながら、昔の難波駅を想起させるものがあります。

詳細にご連絡を頂戴していましたのにお返事が大変遅くなり申し訳ございません。
藤井様とは直接お会いしたことはありませんが南海の情報の収集で何度か郵便にてやりとりさせて頂きました。
ナイター列車は写真はお持ちではないとのことでした。ただ当時の難波駅には留置線があり(私も知っています)そこへ待機させてナイター終了後に走行させたという記憶だとおっしゃられていました。
また和田様の和歌山の汽車・電車は私も所持しており、確かに友ヶ島号が紹介されています。
まだ和田様とは連絡取らせて頂いたことはありません。
あと既にご逝去されましたが「南海太郎」こと平賀様。
この方とも残念ながら情報を収集することは出来ませんでした。
ご存知かも知れませんがその後天理大学展示ホールで平賀氏の南海のコレクションを一時期ですが公開してました。
本当に色々とご教授頂き深謝いたしております。

田中秀明様へ あと思い出した事は、南海が創立80周年を記念して刊行した「最近の10年」と言う書物に様々な方向版を掲載したページがあり、小生は所蔵していますが、実家の倉庫に収納してあるので簡単に取り出すのは困難です。大阪の交通科学館や、以前の神田の交通博物館の図書館には置いてありました。あそこには南海の50年史も所蔵していて、見た事があります。ご参考になるかどうか‥。

管理人様へ
ヨーロッパのドーム屋根の駅と言えば、20年近く前に新婚旅行で行ったドイツで、フランクフルト中央駅のそれが目に焼きついています。幼き日の難波駅の記憶と被りました。ただ規模が難波駅と桁外れに壮大でした。あまりに素晴らしくて何枚か写真に残しています。
確かフランクフルトマイン空港からSバーンの電車で来て、電車は地下のホームに入ったのですが、階段で地上に上がった時にドーム屋根に遭遇していたく感動したのを覚えています。
最近、西武池袋駅の先端部が小規模ながらちょっとしたドーム状になっていて、時々昔の南海難波駅を思い出しております。

はじめまして。
只見線のタブレット廃止のニュースから、貴志川線のタブレットを調べる中で、偶然このHPに伺いました。
実家のすぐ近くの南海本線の数少ないオーシャンビュー撮影スポットで撮影されている写真を拝見し、嬉しくなってコメントさせて頂きました。
線路の下をくぐる階段の先も今やすっかり変わってしまい、海も遠くなってしまいましたが、それでも海が見える希少なポイントですよね。
また、写真を拝見して、南海で引退した車両がさまざまなところで活躍していることも知ることができました。
今でも大井川鉄道で活躍しているのでしょうか?
新型サザンなどの情報もあり、また時々拝見させて頂きたいと思います。
ありがとうございました。

高垣様 当ホームページをご覧頂き、有り難うございます。最近気候が良くないので少しばかり体調を壊し、あまりコメントを良く確認していなかったので、失礼致しました。最近はたまに南海の撮影に出かける事もありますが、大阪に行ったら乗って楽しんで降ります。一度箱作辺りの状況はどうなっているのか?検分してみたい所です。

高垣様 肝心な事を書き忘れました。大井川鉄道にはズームカー21001+21002と21003+21004の2編成が居ます。通常は近鉄の16000系とローテーションを組んで運転しています。5月ごろでしたか?21003編成が修繕に入り、パンタグラフをはずしたりしていましたが、もう復帰しているものと思われます。その他に南海の中古が居るのは一畑電鉄に21001系2連が4編成と熊本電鉄に22001系が1編成居ますが、熊本は予備編成です。

永野様

早速情報を頂いたにもかかわらず、返事が遅くなり申し訳ありません。
箱作周辺は基本的にはあまりかわらないですね。(発展もしてない?)
撮影スポットの里海公園が少しずつ充実してきてますが、昔と比べると海が遠くなってしまい、寂しさも覚えます。
旧型の活躍も、熊本はちょっと厳しいですが、大井川鉄道ならいけるかなと。SLと併せて出かける理由ができました。(^o^)
それにしても、精力的な撮影スケジュールですね。
貴重な記録、時々拝見させて頂きます。

永野様、素晴らしい写真の数々、拝見いたしました。 60歳後半になると子供の頃のことが無性に懐かしくなります。昭和30年代前半を高野線北野田近辺で過ごし、その後父の仕事の関係で、小田急線沿線に住まい、現在は東横沿線で余生を過ごしております。 鉄道ファンというのもおこがましいのですが、最近ふとしたころから「偽ズームカー」を思い出し、検索したところ、ここにたどり着きました。私の幼少から青春時代の鉄道の思いで全てが蘇りました。 永野様と不思議な縁を感じます。 説明を読む度に「そうなんですよね!そういうことだったんですか」ということがたびたびあるのです。 30年代から40年代は、鉄道ファンにはいい時代でした。 これからもこの貴重なライブラリーを続けてくださいますよう願っております。

 伊吹様 コメント頂き、ありがとうございます。例のXp問題でパソコンを買い替えましたら、作法が従来とは異なりますので当ホームページの更新ペースが遅延しておりますので悪しからずご了承ください。

はじめまして、特急りんかんと申します。
私は現在、南海6000系についての動画を作成しております、高校2年の素人動画作者でございます。

南海6000系が登場し今年で54年。これまでの軌跡をまとめた動画を作ってみたいと思い、画像を探している所でございます。

もし差し支えありませんでしたら、ページに掲載されております6000系のお写真(6009Fのもの・新車回送のもの)をお借りしたく思っております。またもし他にも画像がございましたら、是非ともお借りしたいのですが、よろしいでしょうか。

突然の問い合わせ並びに長文・駄文によるご無礼をお詫び致しますとともに、何卒よろしくお願い申し上げます。

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