ここでは、過去に撮りためた様々な鉄道写真をご覧いただけます。懐かしい列車から、最近に至る様々な鉄道の情景をお楽しみ下さい。日本に限らず、ヨーロッパなど外国の鉄道もご紹介致します。下記のアドレスにも鉄道写真がありますので、併せてご覧ください。http://outdoor.geocities.yahoo.co.jp/gl/onaganrengaw なお、掲載した写真等の著作権に関して、著作権法などの法令に違反する行為は堅くお断りいたします。また小生の記述はほとんどが記憶を頼りにしていますので(たまには色々な書物を参照する事はありますが…)、時により過ちが多々あるかも判りませんので、小生の記述を引用しての著述に関する責任等は一切致しかねますのであらかじめご注意お願い致します。
*外国の友人にも判る様に、時々怪しげなる英文を併記していますが、この程度の怪しげな英語でも外国の友人とお話をして通じる程度なので、大変お恥ずかしい次第ではありますが、日本語を読める方は見ないで下さい!また、この英文にご立腹の英語のセンセ方及びそれ以上に英語にご堪能なテツの方には、是非ぜひ添削をお願い申し上げる次第でございます。…小生の英文に対してみるに見かねた、某英語にご堪能なる友人が、とりあえず下記の部分だけ英語の添削をしたメールをいただいたので、それをコピーをいたし、入換えました。
Dear foreign friends! This homepage introduces railway photos of mine not
only in Japan but also in other countries. You will find many titles in
English (along with Japanese) with a small photo in the left side column.
Click the photo of your choice and have a nice trip with my photos. Thank
you.
Let me remind you that all rights are reserved and no part of this site
shall not be reproduced or transmitted by any means without prior written
permission of mine.
☆☆皆様からのコメントを歓迎致します。ご記入頂くには、中央の欄にある「続きを読む」をクリックすると「コメント」が現れますので、そこを更にクリックしてください。
思えば昭和40年の夏、阪神本線から戦前に活躍した小形の電車は全て引退いたしました。丁度その当時は阪神電車も伝法線を西九条まで延長し、難波までの延長計画も具体化したのですが、当時の延長計画のあった区間で、沿線の住民が地下駅の入り口をもっと作れ!等と騒いだ所、阪神の社長は「それなら新線の建設はヤンペ!」と言うことで、建設機材を引き上げて工事は頓挫。あの当時から40年以上になってやっと阪神電車が、このたび難波まで走る事になりました。そこで小生もワルノリついでに、昔の阪神電車に活躍し急カーブを猛スピードで突っ走った小形電車をはじめとする思い出の姿を、ご紹介致したします。それから小生は大阪生まれですが、親戚など大半は南の南海や近鉄地域であった為、阪神電車の写真はさほど多く撮影していません。昭和40年当時はまだ高校生だったので機材や資金的にも、そして写真の腕前もイマイチであったので予めご了承願います。
Hanshin Electoric Railways,it's one of the high speed Inter-Urban survices between Osaka and Kobe.I will intoroduce of "Old good days" about 40 or more years ago.Please click on any photos in this index. You will find some englich reports in this sight! Thank you.
昭和41年能勢電ではポール集電からパンタグラフに付け替え、もと新京阪の木造車もパンタグラフとなり、往年千里山線で活躍していた様な姿が復活した。これは阪急からの全鋼車320形の入線に伴うもので、この電車が能勢電の貧弱な軌道を走れるものか?と危惧させられたが、実際に走り出した姿を見て驚いた。木造車は昭和42年には運転を中止、これを機会に能勢電は軌道強化、更には付け替えなど現在に至る近代化が序じょに始まる事になる
Nose electoric tram system now,Nose Electoric Ry.co.is suberbs in Osaka city. At that times, wood cars were still active.But now,it'sturned to very modern railways.
ドイツに大形本線蒸気機関車を撮影に行くようになったのは、1978年の事です。この時は主に現役で活躍していた東ドイツが最も印象に残っています。一方西ドイツのドイツ連邦鉄道では1977年に蒸気機関車の運転を廃止、以後連邦鉄道では蒸気機関車の運転は一切まかりならぬ!と言う規則を制定してしまいました。このためたとえ01形の様な大形の蒸気機関車であっても西ドイツ国内では、保存鉄道や私鉄の線路でしか運転する事しか出来ない状態となったのです。どうしても本線運転をしたければオーストリアなど、他国へとDBのディーゼル機に牽引されて有火回送して走らせるような有様でした。しかし1985年のドイツ鉄道開業150周年に際しては、この考えを改め、少なくとも連邦鉄道の所有機に関しては本線上の蒸気運転が行なわれるようになりました。その後序じょに「規制緩和」が行なわれて、更には東西ドイツの統合などの事件も加わり、現在のようなドイツ国内を蒸気機関車が走り回るような状態となったのです。ここでは旧東ドイツ時代以外のドイツ型蒸気機関車の活躍する姿を順不同に掲載いたします。
**ただ今このコーナーは制作中であります。従って写真が順番通りには出てこない場合がありますので、見本の写真をご覧の上、お好みの写真をご覧戴くようお願い致します。また写真の一部にスキャナーの際に於ける不手際により、ピントが甘かったり、退色の激しいものもありますが、大半の写真は6×6版の白黒で同時に撮影してありますが、ここではその点をお含みの上、ご覧下さい。
Dear friends. I will intoduce German steam without East Germany.If you hope to look East German Steam,please look "Doutche Dampf Pepublik DDR" in this home page.
Photos in this page,inculding east german area after closuer of East Germany. I have many another photos whith out this corner. Now I hope to intoduce more photos if I can. But now I'm very busy of my educationl working.So please waite untill addtional new phtos.
Thank you.
東ドイツの消滅と前後して、ドイツではプランダンプフと言う新しい蒸気運転が行なわれるようになりました。この方式は、通常DL等が牽引する定期列車を蒸気機関車牽引により運転する!と言うもので、当初はおもに旧東ドイツ地域において、年間十数回にわたって様々な地域で行なわれました。東ドイツではベルリンの壁崩壊直前まで蒸気機関車が営業運転に用いられていた為、全国各地において蒸気運転に必要な設備が残されていた為、蒸気機関車による迅速な運用が可能だったわけです。現在でも年に数回このようなイベントが行なわれているようです。1993年8月13~15日にかけてザールフェルトを起点に行なわれたプランダンプフは01-130、01-531、03-1010、41-1231の4機によるもので旧東ドイツを代表する動態保存の急客機01形原形、近代改造の01-5形、3シリンダーの03-10形をそろえ、更に急行用貨物機41形も登場する豪華なものでありました。3日間に渡りこれらの機関車が早朝から深夜まであちこちを走り回るので、それこそ食事を撮るヒマもないほどに、あちこち追い掛け回したものです。なお、この時の様子は鉄道ジャーナル1994年8月号に紹介してありますので、併せてご覧頂ければ幸甚であります。
Plan Dampf sarounding Saalfeld area in 8-1993 Namely,Steam special for reguror time tabuls.
昭和49年8月12日をもって越前本線の勝山・京福大野間が廃止となった。車輌の近代化のため南海電鉄から昇圧により不要となったモハ1201形16両とモハ11001形8両を大量導入したため、途中の下新井トンネルの通過が不可能な事が理由の一つとして挙げられていたが、トンネルの改修に莫大な費用をかけて存続させるほどの意義も無かったのであろう。当時勝山までは日中30分ヘッド、京福大野までは1時間ヘッドの運転で、そこそこの乗客は乗っていた。
Memorial reports of Keifuku Elec.co. Fukui branch systems abandoned pert of Echizen main line in 12-8-1974.
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